強勢を誇ったムガル帝国も18世紀に入ると貴族階層の没落、繁栄を支えた軍事構造の崩壊が起こった。
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帝国の崩壊の原因は、大きくまとめて3つに要約される[4]。
新興のザミンダールの台頭。
帝国内の小王国の君主たちの離反。
地方長官の帝国からの離反。
ザミーンダールとは、地方を拠点とする豪族・部族の長であり、耕作農民を支配していた。17世紀のインドは、経済的には繁栄の時代であり、この時代において、ザミーンダールは富の蓄積を行った[4]。
帝国内の小王国とは、ムガル帝国に貢納はしていたが臣下とはならなかった王国群のことである。その領土は、地理期に険阻あるいは遠隔地であった。次第に、多くの君主が難攻不落の要塞を建設していった。その典型はラージプートである[4]。
地方長官はもともと、帝国から行政官に任命された。しかし、面従腹背の姿勢を見せる地方長官が出始めた。その典型例は、1724年に宰相・ミール・カマルディンが職を辞し、ハイダラーバードに下野し、帝国軍と戦った事例である。同様のことは、アワド、ベンガルなど肥沃な地方でもおきた。これにより、ハイダラーバードを中心にニザーム藩王国が形成された。かつての行政長官は、ナワーブ(太守)と呼ばれるようになった。しかし、彼らは徐々に、ムガル帝国に納税をしなくなり、徴収した税金は私用するようになった。そして、そのまま、地方王朝が建国されていった[4]。
シク教徒とムガル帝国
アウラングゼーブの後を継いだのが、バハードゥル・シャー1世であった。即位したときには既に64歳と老齢であり、彼に対して、シク教徒のリーダーであったバンダ・バハードゥルの挑戦を受けた。シク教徒は、数世紀にわたり、イスラム政権と影響しあいながら形成された勢力であった。アクバルの時代に、シク教団は、アクバルの保護を獲得し、アムリトサルを拠点に事実上の自治国を建設した。その後、シク教団は、世俗的権力の獲得に乗り出す。しかし、アウラングゼーブの時代の指導者であるゴービンド・シン(en:Guru Gobind Singh)は、ムガル帝国を利用し、さらには、その支配に抵抗を試みた。だが、アウラングゼーブの治世の末期に、ムガル帝国軍と戦い、敗北してしまう[5]。
バンダ・バハードゥルは、パンジャーブ地方のザミンダールと豪族を味方に、ムガル帝国と戦闘状態に入る。シク教徒の反乱自体は、1715年でバハードゥルの処刑によって終了した。この後、シク教徒が治めていた地域は、小規模の国家群に分裂してしまった[5]。
マラータ同盟の隆盛
マラータ同盟の最大領域(1760年)チャトラパティ・シヴァージーを中心にデカン高原でも自立の動きが強まった。シヴァージーは、マラータ族を率い、アウラングゼーブに対してゲリラ戦を展開し、アウラングゼーブを苦しめた[6]。
マラータ同盟は内紛が絶えることはなかったが、それでも1752年には、荒廃の一途をたどっていたデリーを陥落させるまで成長していた。当時のマラータ同盟を支えていたのは、地方の末端まで行政と軍が分離解消していたこと、単一の徴税請負制度が確立していたことが挙げられる。また、常備軍を整備し、ヨーロッパ出身の軍事教官を雇用していたこともその背景としてあった[6]。
東インド会社とインド
1600年、イギリスは東インド会社を設立した。インド亜大陸に最初に商船団を派遣したのは、1608年のことである。西北インドの港スーラトに派遣したこの時、ジャハーンギールから有利な条件で貿易を行う許可を獲得した[7]。また、1640年には、マドラスの地方領主の招聘を受け、東インド会社は要塞の建設が認められると同時に、イギリス東インド会社のマドラスにおいての貿易において、関税は免除されると同時に、他の会社がマドラスで貿易行った場合には、イギリス東インド会社にその会社に課せられる関税の半分が支払われるという条件で、インド貿易の橋頭堡を築いた[7]。
経済的にも成長したインド商人やヨーロッパ諸国の東インド会社の前に侵食されて急速に解体していった。1739年にはイランにアフシャール朝を開いたナーディル・シャーによってデリーを占領され、甚大な打撃を蒙る。
19世紀に入るともはやデリー周辺を支配するのみの小勢力となっていたが、1857年に大規模な反英闘争、いわゆるインド大反乱(セポイの乱)が起こると82歳の老皇帝バハードゥル・シャー2世が反乱軍のシンボルとして担ぎだされるほどの余光を保っていた。1858年、大反乱を鎮圧したイギリスはバハードゥル・シャーを裁判にかけて有罪とし、ビルマへと流刑に処して退位させた。これによりティムール王朝から数えて500年続いた王朝は完全に消滅し、ムガル帝国は350年にわたるインドにおける歴史を閉じた。
文化
ムガル帝国における文化で特筆すべき点は、建築と絵画、ペルシャ語の詩文である。建築分野はペルシャの影響を残しつつも、インド的な要素を取り入れていった。ムガル帝国は、首都をデリー、アーグラ、ラホールと度々、移動したため、各地でイスラーム建築が建設され、インド亜大陸における建築様式に影響を与えた。
初代皇帝バーブルはアヨーディヤーにバーブリー・マスジドを建設した。また、バーブルの庭園に対する嗜好は子供たちに受け継がれ、ムガル建築の特色となった。ムガル建築が、飛躍的な発展を遂げたのは、アクバルの時代である。フマーユーン廟の建設は北インドにおける中央集権国家が確立した証左であった。さらに、新都ファテープル・シークリーの建築群は、インドを代表する赤い石を使用し、木造建築を模した石造建築というインドの伝統的な建築工法を導入した[8]。
庭園建築は、ジャハーンギールも好んでおり、風光明媚であるカシミール地方に多くの庭園を建設した。その代表例がシュリーナガルのシャーラマール庭園である[8]。シャー・ジャハーンは、タージ・マハルの建設で名高いが、デリーの赤い城のように赤砂岩を用いた建築物も残しているが、シャー・ジャハーンの嗜好は白大理石であったようであり、皇帝の私的空間には、白大理石の建物を好んで建設した[8]。アウラングゼーブは、ラホールにバードシャーヒー・モスクを建設した。
バーブリー・マスジド。但し、1992年以前の景観である。
フマーユーン廟
アーグラ城塞
ファテープル・シークリー
ラホール城
アーグラのミールザー・ギヤス・ベクの墓
シャーラマール庭園_(シュリーナガル)
タージ・マハル
デリーの赤い城
ラホールのバードシャーヒー・モスク
フマーユーンは、スール朝との抗争で、サファヴィー朝のタフマースプ1世の宮廷に身を寄せた時期があったが、その際に、フマーユーンは、ペルシャの細密画に触れる事となった。ムガル絵画の出発点は、フマーユーンがペルシャから2人の画家を連れて帰った事を出発点とする。ムガル帝国が成長するにつれ、ヒンドゥーの要素を取り入れながら、ムガル絵画は、成長を遂げていった。肖像画、動物や植物、風景、マハーバーラタやラーマーヤナといった叙事詩を題材に採用していった。
バーブル
パーニーパットの戦い
アクバル
宮廷に招かれたイエズス会士とアクバル
ジャーハンギール(右)とアッバース1世(サファヴィー朝)
ジャハーンギール時代の絵師マンスール(en:Ustad Mansur)による鳥(Truthahn)
シャー・ジャハーン
クルアーンを読むアウラングゼーブ
歴代スルタン
バーブル(1526年 - 1530年)
フマーユーン(1530年 - 1540年、復位:1555年 - 1556年)
アクバル(1556年 - 1605年)
ジャハーンギール(1605年 - 1627年)
シャー・ジャハーン1世(1628年 - 1658年)
アウラングゼーブ・アーラムギル(1658年 - 1707年)
バハードゥル・シャー1世(1707年 - 1712年)
ジャハーンダール・シャー(1712年 - 1713年)
ファッルフシヤル(1713年 - 1719年)
ラフィー・ウッダラジャート(1719年)
ラフィー・ウッダウラ(1719年)
ムハンマド・シャー(1719年 - 1748年)
アフマド・シャー(1748年 - 1754年)
アーラムギール2世(1754年 - 1759年)
シャー・アーラム2世(1759年 - 1806年)
アクバル・シャー2世(1806年 - 1837年)
バハードゥル・シャー2世(1837年 - 1858年)